信長から厚く「信頼」されていた丹羽長秀
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第85回
■信長と二重の縁戚関係を結ぶほど「信頼」された長秀
長秀は、主君の信長から与えられた役目を忠実にこなしていきました。
朝倉家の討伐では、朝倉義景(あさくらよしかげ)の母光徳院と息子愛王丸を処刑し、石黒成綱(いしぐろしげつな)の誅殺や寺崎盛永(てらさきもりなが)を幽閉し切腹させるなど、汚れ役ともいえる任務をこなしています。
一方で、観音寺城(かんのんじじょう)の戦いでは箕作城(みつくりじょう)を攻略するなどの活躍を見せ、また安土城の普請奉行を務め、徳川家康の接待役を任されるなど、内政や外交面でも大きく貢献しています。
その活躍ぶりは、江戸時代の書物において「米五郎左」と称されており、織田家臣の中では、非常に器用なため必需品である米のような存在だと書き残されています。
そして、長秀は信長の姪を正室に迎えており、嫡子長重(ながしげ)は信長の五女を娶るなど、織田家とは濃い縁戚関係を結んでいます。これは他の家臣には見られない関係性でした。
秀吉たちのような方面軍の司令官には選ばれませんでしたが、信長の三男信孝(のぶたか)の副将を任されるほどの「信頼」を得ていました。
■秀吉も一目置く存在の長秀
本能寺の変が起こると、長秀は信孝と相談の上で、光秀の娘婿である津田信澄(つだのぶずみ)を攻め滅ぼし、不安の芽を摘んでいます。
その後の山崎の戦いに参加すると、光秀本隊の側面を突く活躍を見せて、明智軍を混乱させるなど羽柴軍の勝利に貢献しています。
そして、清須会議では信長の孫秀信(ひでのぶ)を支持し、秀吉に加担しています。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでも長秀は秀吉に味方し、苦しい戦況を一変させる活躍をしています。
当初は、佐久間盛政によって中川清秀(なかがわきよひで)を敗死させられ、高山右近(たかやまうこん)を破られるなど、賤ヶ岳砦周辺で不利な状況にありました。長秀は2,000の兵を賤ヶ岳方面へ転進させ、撤退中の桑山重晴(くわやましげはる)と合流すると、佐久間軍を破り、賤ヶ岳砦の確保に成功させています。これを期に、羽柴軍が優勢となっていきます。
その際の軍功により、戦後に柴田勝家の旧領越前国と加賀国の一部など約60万石を得ています。
しかし病気となった長秀は、小牧長久手の戦いに出陣できず、その翌年に死去します。
秀吉は信長ほど長秀を「信頼」していなかったのかもしれませんが、その性格や経歴から、一目置く存在だったと思われます。
しかし、跡を継いだ嫡子長重は家臣の管理不行き届きを理由に、二度にわたり減封され、加賀国松任4万石となってしまいます。これは長秀亡き後の、丹羽家の勢力削減とも言われています。
■組織内における「信頼」の獲得は重要
長秀は古参家臣として信長を支えていく中で、厚く「信頼」されるようになり、二番家老にまで登りつめています。
信長の死後の権力闘争でも、秀吉による権力掌握に貢献し、数カ国にまたがる領地を得ていました。
現代でも、華々しさはないものの実直な働きぶりで「信頼」を集め、重要な地位を任される例は多々あります。
もし、長秀が長命であれば、丹羽家は前田家のような地位を得ていたのかもしれません。
ちなみに、嫡子長重は「幕府に忠勤に励み、機転を利かせすぎたり、媚びへつらいしないよう」と、長秀の人間性を表したような遺言を残しています。
- 1
- 2